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韓国外交の巨星墜つ 孔魯明元さん(93)死去=「北方外交」で中心的役割、駐日大使や外相歴任
2021年、孔魯明(コン・ノミョン)元外交長官の卒寿記念文集出版は、外交官としての業績と人柄が国際的にあらためて注目されるきっかけとなった。『孔魯明と私』と名付けられたこの文集には、韓国からは潘基文(パン・ギムン)元国連事務総長、柳明桓(ユ・ミョンファン)元外交長官、金星煥(キム・ソンファン)元外交長官、金夏中(キム・ハジュン)元統一長官をはじめ、外交官、学者、ジャーナリストなど約50人が寄稿した。日本からは河野洋平元衆議院議長、小此木政夫慶応大学名誉教授らが孔魯明元長官を慕う文を寄せた。
世宗研究所の李容濬(イ・ヨンジュン)理事長は「外交部(省に相当)に勤めていた38年間に長官が21人来たが、愛国心・専門知識・状況判断力・人柄・英語の実力で孔魯明元長官にかなう長官を見たことがない」と述べた。 沈允肇(シム・ユンジョ)元国会議員は「(駐日韓国大使館に勤務していた時)日本人も孔魯明駐日大使の人柄と実力に敬意を表するのを見て、『外交官とはこういうものなのだ』と感じるところが多かった」と語った。
日本側の評価も格別だった。小倉和夫元駐韓日本大使は「冷静さというか、燃え上がる愛国の炎をどこかに隠し持っているようなあの厳粛さは今でも目に浮かぶ」と話した。別所浩郎元駐韓日本大使は「孔魯明長官が身をもって実践してきたプロ精神は国籍と関係なく全外交官のかがみ」と語った。
このように評価されてきた孔魯明元長官が卒寿記念文集出版5年目の25日夕、老衰で亡くなった。93歳だった。潘基文元国連事務総長は「7日に孔魯明元長官の病室を訪れ『潘基文が参りました』と大声で言ったが、何の反応もなかった。大韓民国の外交の巨星が消えた」と言った。
ソウル大法学部卒業後、外交官の道を歩んだ孔魯明元長官は米国・中国・日本・ソ連・北朝鮮との外交現場で大きな足跡を残した。外交官としての業績は2024年7月、国立外交院にその名を冠した「孔魯明セミナー室」が設立された際に朴喆熙(パク・チョルヒ)院長=当時=がした演説によく表れている。その演説とは「1958年に外務部=現・外交部=入部後、韓日会談に加わり、中国民航機韓国着陸事件の解決により韓中国交正常化の土台を築き、初代ソ連大使、南北核統制委員会の韓国側委員長、外務長官(1994-96年)を歴任し、南北問題や中国・ソ連関係はもちろん、米国と日本を含む韓国の外交のあらゆる領域に携わった」という内容だった。
多数の外交官たちの証言通り、孔魯明元長官は1983年のハイジャック事件「中国民航機韓国着陸事件」で首席代表を務め、国際法の原則に基づいて事態を解決することにより、中国はもちろん韓国社会にも強い印象を残した。潘基文元国連事務総長は「孔魯明元長官は南北核統制委員会の韓国側委員長として活動していた時、北朝鮮側がとんでもない主張をしたら強く叱責(しっせき)し、主導権を失わなかった」と回顧した。孔魯明元長官は1994年、北朝鮮の核開発中断の見返りとして軽水炉を提供する米朝ジュネーブ合意について、結局は北朝鮮にだけ有利な結果をもたらすと考え、「ジュネーブ合意に関与した人々は皆、その結果に対して責任を取らなければならない」と叱責した。
金泳三(キム・ヨンサム)政権時代に政治的中傷を受けると長官職を電撃辞任した後、韓国軍ソウル地区病院に入院したエピソードも語り継がれている。当時、ジェームズ・レイニー駐韓米国大使が直接見舞いに来て、辞表を受理した金泳三大統領に対する米政府の不満を遠回しに表現した。金泳三大統領は後に自身の判断ミスだったことを認めた。
2024年7月の「孔魯明セミナー室」命名式に車いす姿で現れた孔魯明元長官は「外交交渉を成功させるには相手に信頼感を与えなければならない。外交官たちは、天に恥じるようなやましいことは何もないという『仰天不愧(ぎょうてんふき)』の人生を歩まなければならない」と述べたが、これが事実上、公の場で残した最後の言葉になった。秘書官を務めた朴容民(パク・ヨンミン)駐タイ韓国大使は『孔魯明と私』に「(外交官は)私利私欲のわなや栄辱に陥らず、職をかけて仕事をして当然だということを孔魯明元長官から学んだ。本当に重要な主張は言葉でするのではなく、生き方でするのだということを教えてくださった私の英雄だ」と語った。祭壇は延世大学新村セブランス病院に設けられ、27日から弔問を受け付ける。
李河遠(イ・ハウォン)外交安保エディター