韓国行きという「険しい道」選んだ日本の天才囲碁少女【朝鮮日報コラム】

 仲邑菫(なかむら・すみれ)女流棋聖。日本の囲碁ファンは、この14歳の少女プロ棋士を名字ではなく「すみれ」という名前でよく呼ぶ。幼いころから抜群の実力を誇っていた上、行動も愛らしくてアイドル級の人気を博してきた。その仲邑菫女流棋聖が来年3月、活動の場を日本から韓国に移す。韓国棋院がこのほど、関連案件を可決したのを受け、本人が東京で記者会見を開いた。そうした過程を見ていて、二つのことを強く感じた。

 一つ目は、人生流転という世の習いだ。人だけでなく、特定の国や分野の栄枯に常はない。 囲碁は日本が文化的に誇りを持っている分野の一つだった。江戸時代の約400年間にわたり、官職まで設けて養成した囲碁が国技として定着し、その伝統が20世紀末まで続いて日本人の自負心を守ってきた。

 韓国と日本にまつわる囲碁の歴史も険しい道をたどってきた。その一例を挙げてみよう。韓国の囲碁黎明(れいめい)期の1962年、国手戦で趙南哲(チョ・ナムチョル)九段に挑戦して惜敗した金寅(キム・イン)四段が日本に留学すると、日本棋院は藤沢朋斎九段と置き碁(ハンデ戦)をさせた。これは韓国の囲碁を見下した無礼な措置だった。完勝した金寅に日本は三段を許した。だが、金寅は日本の仕打ちが不当だということを見事な成績で証明した。ところが、鼻高々だった日本の囲碁はさまざまな理由で1990年代末から没落し、約20年間にわたり韓中両国の脇役にとどまっている。

 再起しようと頭を抱えていた日本は、天才少女・仲邑菫の存在に注目し、2019年に女流特別採用推薦棋士制度を導入した。まさにこの少女のために作られたような制度で、10歳の時にプロになった仲邑菫女流棋聖はその期待に200%応えた。日本史上最年少のタイトル獲得(13歳11カ月)など、ファンや報道陣の注目を浴びた。しかし、日本が「すみれプロジェクト」の大成功に沸いていたさなか、仲邑菫女流棋聖の韓国移籍というニュースが報じられた。

 これまで日本は各国の有望棋士たちが「先進の技」を吸収するため訪れる留学先であって、自国のプロが修行目的で海外へ行った例は一度もなかった。「日本囲碁界の守護神」として注目されていた仲邑菫女流棋聖が海外に移籍すると報じられると、日本列島は大騒ぎになった。「世話になった日本棋院の体面をつぶす行為」「日本にも実力者が大勢いる。レベルアップする方法は海外移籍だけではない」など反発する声が相次いだ。しかし、驚くべきことに、批判世論はすぐに声援の中に埋もれていった。仲邑菫女流棋聖の堂々たる姿勢と論理が、こうした状況を国民的な祝福ムードに変えたのだ。

 これが、先に述べた「強く感じた二つのこと」の二つ目だ。10代の少女がこれほどの情熱と所信と実行力を持っているとは、想像もできなかった(しかも、ハイティーンでもない14歳だ)。「より高いレベルの環境で勉強することが、今の私には必要だと思い、決断に至りました」「両親と相談はしましたが、自分で決めました」という言葉に、誰が文句を言えるだろうか。

 プロ棋士の社会的地位はまだ日本の方が韓国より高い。収入も依然として日本の方がずば抜けている。それでも韓国行きを決心したのは、「強い棋士も対局数も多いからだ」と言った。裕福な家庭で育った仲邑菫女流棋聖は、日本に安住していても高い収入と人気を維持できるが、自身と祖国の飛躍のために険しい道に挑むことを選んだ。

 仲邑菫女流棋聖はプロ入り前、6歳の時から約2年間、韓国で囲碁を習っていたことがある。 同年代のライバルに敗れるたびに号泣し、周りの人たちがなだめるのに苦労したという。 会見で仲邑菫女流棋聖は「強くなって、いつか戻って、日本の囲碁界に役に立てるようになりたいです」と自国のファンを思いやった。国籍に関係なく、仲邑菫女流棋聖の勝負師精神にエールを送りたい。

イ・ホンリョル囲碁専門記者
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