歴史問題
樺太の朝鮮人を襲った悲劇とは
韓国の国家記録院は14日「今回収集した1946年の旧ソ連中央党の報告書によると、日本政府のサハリン強制動員者は2万2817人と記録されている」と発表した。これらの朝鮮人は、主に鉱山、材木の伐採地、建設現場で労働者として働いていた。これまでサハリンの韓国系住民からは「父親や親族が日本軍によって殺害された」という証言が広く聞かれていた。当時、日本の軍人や警察は、終戦を迎え朝鮮に戻ろうとした朝鮮人たちに、銃剣を突きつけた。
1940年から旧樺太で生活し、2003年3月に韓国に帰国したキム・スヨンさん(73)は14日、本紙のインタビューに対し「エストル(恵須取。現在のウグレゴルスク)地域では45年ごろ、5人家族がトラックに乗ってサハリン南部に移動する途中、日本軍に銃で撃たれて皆殺しにされたという話を聞いた」と語った。1945年に朝鮮に戻ったキム・ギョンスンさん(84)は「終戦後、サハリンから朝鮮に戻ろうとして、兄と父を失った。日本の警察が、朝鮮に戻ろうとした父と兄を警察署に連れて行き、銃弾を浴びせ、警察署を焼き払ったと聞いた」と証言した。
当時、旧樺太では日本人が、敗戦の責任を口実に朝鮮人を虐殺したとされる。サハリンで生まれ育ち、2010年に韓国に帰国したイ・テヨプさん(74)は「トルという場所で、“かまた”という日本人警察官が農家を襲い、20代の男性とその父親の腹を日本刀で斬った上、近所の若い夫婦も斬り殺したという話を聞いた」「日本の警察は、殺害した人々に対し“ソ連のスパイではないか”と言いがかりをつけた」と語った。
2009年に韓国に帰国したパク・ノヨンさん(76)は「瑞穂という場所では、女性・子どもを問わず家族を刃物で刺して数十人を皆殺しにしたという話を聞いた」「幼いころに聞いたので、それほど怖くはなかった。瑞穂のほかにも3、4カ所で虐殺があったという話を聞いた」と話した。瑞穂(清水村瑞穂。現在のポジャルスコエ)事件は、朝鮮人のスパイ行為が原因で日本軍が敗北したと考えた青年団や在郷軍人会所属の日本人が起こしたものだ。同年帰国したイ・ボンヨルさん(71)は「日本人は、銃剣で刺し殺した後、遺体を1カ所に積み上げて焼いたり、穴に埋めるなどして処分したと聞いた。殺した理由は、朝鮮人がソ連の手先になったため、戦争に負けたというものだった」と語った。
日本の敗戦後も、強制徴用者の2世たちの暮らしは悲惨だった。09年に韓国に帰国したパク・イルソプさん(73)は「44年に炭鉱が崩れ、作業服姿のまま血まみれになった父が背負子(しょいこ)で運ばれてきたが、2カ月苦しんだ末に結局亡くなった」「母も病死し、11歳のころから材木の伐採地で働いた」と語った。パクさんは、月給もなく、パン一切れを昼食に、木を伐採して運ぶ仕事を続けたという。
韓国外国語大学のパン・イルグォン研究教授は「ロシア(旧ソ連)の文書を通じ、民間人虐殺が広範囲に行われていたという証拠が明らかになったが、虐殺被害者の数については、さらなる文書の入手が必要」と語った。
首相室所属の「対日抗戦期強制動員被害調査および国外強制動員犠牲者等支援委員会」は昨年1月、サハリン強制動員真相報告書を発表した。この資料によると、45年の終戦当時、南樺太に住んでいた朝鮮人は約4万3000人で、強制労働に動員された朝鮮人男性の数は3万-3万4000人と推定されている。朝鮮人を動員した企業は主に、三菱、三井、王子製紙、日鉄などだった。国家記録院は、日本軍による旧樺太朝鮮人虐殺に関する文書と共に、強制動員された朝鮮人約1万2000人の名簿や写真、家族に関する記録を入手した。これらの資料は、サハリン強制動員被害者の補償申請の根拠として活用される予定だ。