1994年の聖水大橋崩落事故直後に任命された崔秉烈(チェ・ビョンリョル)ソウル市長が、幹部を呼んだ。彼は「非難に萎縮するな。誤りだったら、監獄には私が代わりに行く」と言った。その上で「皿を磨いて割ってしまうのはいいが、皿が割れるかもと思って最初から磨かないのであれば、黙ってはいない」と伝えた。7カ月にわたってソウル市の体制をひっくり返し、「安全市長」と評された。

 彼は火のような性格だった。記者時代、後輩が手抜きをしたり記事をきちんと書かなかったりしたら厳しく叱った。独善に近いくらいに厳しかった。幹部会議のとき、先輩との間で責任論争が起きると「どこになすり付けているんだ」と机を飛び越え、宙を跳んだ。編集局長時代、権力機関から記事差し止めの要求が来ると「私はできないので、あなた方が来て新聞を作ってほしい」と言って受話器を投げた。公報処・文化公報部(省に相当。以下同じ)・労働部長官時代は任期に恋々とせず、ブルドーザーのように押していった。「命を懸けてやれ」と言った。KBS放送労組がストをするとすぐに公権力を投入し、労働界の反発に遭っても総額年金制を押し付けた。バス専用レーン制も施行した。1985年の総選挙では初めて世論調査の技法を導入した。党代表時代には利益団体の抗議集会に自ら乗り込んで「責任持って対策を作りたい」と説得した。その推進力のせいで「チェトラー(崔秉烈+ヒトラー)」という別名が付いた。

 外では独裁者のようだったが、家では細やかな家長だった。妻の実家が反対したせいで結婚まで7年かかり、そんな妻をことのほか大切にした。恐妻と言われるほどに、穏やかで従順な羊だった。どれほど忙しくても、日に3-4回は妻に電話をかけた。子どもにも大声を上げなかった。「勉強しろ」という言葉より「遊ぶなら楽しく。運動はたくさんやれ」と言った。

 韓宝グループの鄭泰守(チャン・テス)会長が、機嫌を取ろうと彼に1億ウォン(現在のレートで約1030万円)を送ってきた。彼はすぐにカネを送り返した。鄭会長は「自分の生涯でカネを返されたのは初めて」と、崔トラーを恐れたという。議員時代、財布に入れていた政治資金数百万ウォン(100万ウォン=約10万4000円)が妻に見つかった。妻が「一人で隠しておいて使うとは、いったいどういうお金なのか」と言ったが「選挙資金だから私的に使ってはいけない」と答えた。閣僚時代は名節(祭日・年中行事)・年末に贈られた酒やネクタイ、食べ物などを執務室のテーブルに並べ、職員を呼んで持っていかせた。

 彼は2003年、大統領選挙資金特別検察を貫徹しようと断食に入った。医師たちが「糖分・栄養飲料を摂取しないと体が持たない」と言ったが、原則を守り、水と塩だけを口にした。10日間の厳しい断食の末、特別検察を引き出したが、引き換えに健康をひどく害した。数年前からは身動きするのもつらくなった。12月2日、彼は遂に世を去った。周囲では、健康だったのに断食の後遺症でこんなことになった、と惜しんでいる。

ぺ・ソンギュ論説委員

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