陳情の提起からわずか8日後の7月24日、公州市文化財課は「2011年の武寧王陵模型館展示改善事業の途中、紛失したものと推定している」としつつ「紛失経緯と所在の把握のための多角的な努力を行ったが、まだ見つけ出せていない状態」という返信を行った。皇室関係者の訪問と祭祀、祭器寄贈の事実は記録も目録も写真もなく、ただ新聞記事で確認できるのみであって、寄贈物の行方は迷宮入りした、という意味だ。
■武寧王と天皇家の血縁
武寧王は西暦501年から523年まで百済を治めた王だ。『三国史記』によると、諱(いみな)は斯摩(しま)という。『日本書紀』によると武寧王は、461年に蓋鹵(がいろ)王が弟の昆支と共に日本へ派遣した王妃が、九州の各羅島(かからのしま)で生んだ子だという(『日本書紀』雄略天皇紀5年条、6月丙戌〈へいじゅつ〉朔〈さく〉)。当時、百済と倭は王族間の交流を通して外交関係を結んでいた。『三国史記』『三国遺事』には武寧王の出生についての記録はない。
同じく日本の史書『続日本紀』には、このような記録がある。すなわち、桓武天皇(737-806)の母親である皇太后の高野新笠(たかののにいがさ)は百済武寧王の息子・純陀(じゅんだ)太子の子孫であり、百済の遠い祖先である都慕王(高句麗の東明王。朱蒙)は、河伯の娘が太陽の精気に感応して生んだ子で、皇太后はまさにその子孫である(『続日本紀』巻40、延暦8年12月丙申)。
2001年12月23日に、当時の天皇は、68歳の天皇誕生日記念記者会見でこのように述べた。「桓武天皇の生母は武寧王の子孫だと『続日本紀』に書いてあり、韓国との縁を感じる。武寧王の時代、五経博士が代々招かれた。武寧王の息子、聖王は日本に仏教を伝えたといわれている」。近代日本の天皇が初めて百済と日本皇室の関係を認めた発言だった。
この発言によって、3年後にまたいとこに当たる朝香誠彦氏が武寧王陵を訪れた。あえて意味を付与するならば、西暦660年の百済滅亡から1300年ぶりとなる。公州市庁のホームページに請願を載せた人物はこのようにつづった。「この品々が公州市の観光と、歴史性を証明する上でどれほど意味があるものであるか、分かっていらっしゃいますか?」。公州市側は、記者との電話で「警察への捜査依頼はしなかった」と明かした。
朴鍾仁(パク・チョンイン)先任記者