「ガラス窓に銃弾が撃ち込まれた。銃弾が飛び交う中、蒋介石は後方の窓から逃げた。着替える間もなかったため、蒋介石は制服や靴、入れ歯を残したままの逃避行だった」
1936年12月12日未明、かつて唐の玄宗と楊貴妃が過ごした西安・華清池で銃撃戦が起きた。中国国民党の指導者、蒋介石は慌てて裏山へと逃げた。しかし、すぐに満州軍閥の張学良が率いる軍人らに拉致された。蒋介石に圧力をかけ、共産党との内戦を中断し、抗日戦争に取り組むことを促すためだった。蒋介石は13日後に解放され、約束通りに抗日戦争に乗り出した。国民党政府の包囲攻撃で全滅の危機に直面していた毛沢東の中国共産党は、窮地から脱し、1949年に中国大陸を掌握した。西安事変がなかったならば、毛沢東の中華人民共和国もなかったはずだ。
英紙オブザーバーや香港紙サウスチャイナ・モーニング・ポストの編集長を務めた中国専門家、ジョナサン・フェンビー氏(72)が著した『蒋介石評伝』は、蒋介石が残した日記や当時の報道など一次資料と研究書だけでなく、インタビューや現地調査を通じて書かれており、臨場感とディテールが豊かな点が特徴だ。
蒋介石は塩商人の息子として生まれ、青年革命家として成長し、中華民国の国父である孫文の信任を得た。孫文が開始した北伐を受け継ぎ、中国を統一した近代国家に生まれ変わらせようとした蒋介石の人生はドラマチックに展開する。蒋介石は共産中国の成立後、「腐敗した国民党政権指導者」「無慈悲な権力者」として批判されたが、最近の中国では再評価が少しずつ進んでいる。蒋介石が率いた国民革命軍がなければ、地方の軍閥を統制し、中国を統一する北伐の成功は困難だったはずだ。
評伝は1928年に発足した南京国民政府も清朝の崩壊後、中国を近代国家にするための努力の第一歩だと位置づけた。しかし、政府の行政能力が伴わず、腐敗が足かせとなった。毛沢東の共産党が抗日戦争に総力を挙げたのに対し、蒋介石はそれを傍観していたというのも偏見だと指摘した。
蒋介石は知られているよりは対日抗戦に積極的で、抗日戦の損失も共産党より国民党の方がはるかに大きかった。ロイド・イーストマンの『蒋介石はなぜ負けたのか』、レイ・ファン(黄仁宇)の『蒋介石マクロヒストリー史観から読む蒋介石日記』と共に読むことを勧める。736ページ、3万8000ウォン(約4100円)。