風水で朝鮮の「気」断とうとした?

日本の鉄杭、もう一つの真実

 「明史」によると、李如松は1593年1月に平壌城を奪還した。しかし「碧蹄館の戦い」(現・京畿道)で敗れて平壌に後退し、同年の9月に帰国する。一方、「朝鮮王朝実録」は李如松が1593年5月に聞慶(現・慶尚北道)まで下り、9月に帰国したと記録している(李如松自身が出征したのではなく、その指揮下の部隊が聞慶まで行った可能性もある)。確実なのは、李如松が朝鮮に滞在したのは1年にもならない短い期間だったという点だ。李如松に対する朝鮮朝廷の態度はどうだったのだろうか。彼は朝鮮を再建させた「再造朝鮮」の恩人だった。さらに、平壌に生祠堂(善政をたたえて本人が生きている間に建てる「ほこら」)を建てて祭り、朝鮮が滅亡するまでその子孫を世話した(李如松は朝鮮で「琴」という姓を持つ女性との間に子孫を残した)。その李如松が朝鮮の地脈を断ち切ったというのだ。「風水侵略史研究試論」で西京大学のソ・ギルス教授は「李如松は江原道・忠清道・全羅道・慶尚道などで40以上の地脈を断ち切った」という調査結果を発表している。だが、これらは李如松が足を踏み入れていない地域だ。

 「日本人鉄杭説」はどうだろうか。各地でこうした説が伝えられている。部分的に見れば蓋然(がいぜん)性がある場所もある。しかし、鉄杭を打ち込む位置や類型が違いすぎるため、日本が全国規模で組織的に行ったと見るのは難しい。その理由には次の2つがある。

 まず、19世紀後半に朝鮮を侵略するため、周辺列強国が真っ先にしたのは測量だった。1875年の雲揚号事件(江華島事件)も日本の朝鮮沿岸測量に端を発する。1895年には日本は200人以上の測量士を送り込み、全国を測量した。これに反発した多くの朝鮮人が犠牲になった。1912年に日本が三角測量を実施するにあたり通達した注意事項には「『三角点の標石の下に魔物が埋められたので災厄がやって来る』という流言飛語にだまされないように」という内容の文章がある。

 だが、それ以降も測量事業は植民地建設(道路・鉄道・新都市など)でさらに進められたため、国を奪われた人々は「魔物が埋め込まれた」と考え違いをするようになった。特に、先祖が眠る墓地のある裏山に三角点が設置されると「鉄杭」だと受け取られ、怒りを招くことになった。

 第二に、韓中日は3カ国とも山を信仰する思想が強く、名山大河を壊すような行為は禁忌とされてきた。山では官職者が祭祀を行った。八百万(やおよろず)の神がいるという日本も同じだ。「神が座し、神が降り立ち、魂がよみがえる」場所が山だ。明国が高麗を属国にした時に高麗の山河の祭祀を行ったように、日本も既に自国領土になっている朝鮮の山河に対しやたらなことはしなかった。それどころか霊山として知られている場所には神社を建て、神聖視した。

 つまり、「鉄杭」のうわさは国を奪われた人々の「主人意識の欠如と被害意識の産物」なのだ。では、現在はどうだろうか。全国の霊山の頂上にはどこにも高さ数十メートルという送受信塔が無数に建っている。これこそ大きな鉄杭ではないか。掘削機を使って山を平地にするなどということは全く話にもならない。地脈を完全に断ち切ることになるからだ。流れる川をふさぎ、山並みを壊して生態系を乱す行為だ。「李如松や日本人の鉄杭」に激怒する人々の中で、こうしたむやみな開発を懸念する人は少ない。これもまた、自分たちの土地を大切にしない「主人意識の欠如」ではないだろうか。

キム・ドゥギュ教授=又石大学教養学部
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